以前の記事で、「受け入れる」というストレスの向き合い方を書いた。

(記事参照:「受け入れたら味方になる!」

記事をアップしたあとに思ったのだが、そういえば、私がいつも思っている具体的な受け入れ方を書くのを忘れていたことに気づいた。

それは、

 

「どうでもいい」

 

という受け入れ方だ。

 

一般的に「どうでもいい」というと放棄している投げやりな感じを受ける。

しかし、それは後ろ向きな「どうでもいい」だ。

 

だが、逆に、前向きな「どうでもいい」もあると思うのだ。

 

今回はストレスから離れてラクに生きていくために、この前向きな「どうでもいい」という受け入れ方を考えてみよう!


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白か?黒か?

私たちは物事や人の判断をどうしても「良いか?」、「悪いか?」で決めてしまいがちだ。

しかし、世の中の常識なんてものはしょせんまぼろしである。

そのことについては前回の記事である「受け入れたら味方になる!」を読んでもらえたらと思う。

 

だいたい、そもそも世の中の善悪ってなんだろうか?

人は誰でも自分だけの宇宙で生きている。

つまり自分それぞれが、自分の宇宙の中で善悪をもっている。

だから決して、世の中の善悪と同じではない。

 

それなのに多くの人が、世の中の善悪を気にしすぎて、他人の目を気にしすぎて、「良くないこと」、「悪いこと」のレッテルを貼りまくっているような気がしてならない。

それじゃ苦しくないですか?

私ニャニャまるは、世の中の善悪がまぼろしならば、つまり、白でもなく黒でもなく、グレーがあっても全然okだと思うのだ。

自分以外のことはわからない

生活していると、日々たくさんのニュースが飛び込んでくる。

 

そして、その起こった事を見聞きすると、無意識に「善か?悪か?」の判断をしてしまいがちだ。

 

たとえば、母親の幼児虐待などの事件。

もちろん、どんな理由があれ、弱い立場である幼児を虐待してはならない。

だが、ニュースだけの情報では、その事件のほんの一部しか私たちにはわからない。

加害者とされる母親がどんな幼少を過ごしてきたのか?

どんな出会いがあって、その子を産み、育てていたのか?

そして、どうして虐待という行動に出てしまったのか?

私たちは、幼児虐待という悲惨な「結果の情報」だけをニュースで見て判断してしまいがちになる。

母親である彼女の生い立ちも生活環境も人間関係も何も知らないのに・・である。

このような当人しかわからないことは、私たちがコタツに入りながらテレビを眺めて「ひどいことをする母親だ!」と悪のレッテルを貼る権利はそもそもないと思うのだ。

 

それがたとえどんなに凶悪な事件であってでも、背景に何があったのかは当人しかわからない。

 

私はこのような事件を聞いたとき、悲しい気持ちになるが、できるだけ傍観するようにしている。

つまり、加害者をひどいと思わなければ、同情もしないようにしている。

いい人でいる必要はない

人生の中では、「このようなとき、どう判断したらいいのか?」と選択を迫られるときが多々ある。

しかし、そんなとき、小さい頃から「いい人になるように」と教えられてきた人は世間の常識を基準にしがちだ。

大人になってからも他の人から・・

 

🙂「○○さんて本当にいい人だよね」

 

と、言われていると、嬉しい反面、そのような周囲の期待に応えていなければならないような気がしてくる。

 

自分=いい人

 

なんて、図式が定着してしまうと、世間が思う、いい人から外れた行動をすると、もはや自分ではなくなるような恐れも生まれてくる。

 

🙁「こういえば相手は自分のことをいい人だと思ってくれるだろう、賢いヤツだと思ってくれるだろう」

 

私はこういう考えの人には関心がもてない。

興味がもてない。

むしろ、自分の感情のままに言いたいことを言ってきたりする人の方が一緒にいて安心できる。

 

それは、私自身が、いい人間ではないからだ(笑)

そう!ここで宣言するが、私ニャニャまるはいい人間ではない!(大声)

遠慮とかそういうのではなく、本当にいい人間ではないなぁと心から思っている。

自分にイヤなことがあると、すぐに怒るし、落ち込むし、意地悪に人を傷つけるような言葉も言ってしまう。

怒りなどの感情は溜め込んで煮つめたくない。

昔からそうだったし、今もそれは変わらない。

だけど、自分でも成長したなぁと思うのはその後の対処の仕方。

まずはすぐ謝るようになった。

もちろん、早く修復したいからだけではなく、心から素直に「ごめんなさい」という言葉が出るようになった。

そして、不快なことも、できるだけ、意味のあることだと変換するようになった。

もちろん、今だにうまく対処できないときもあるけれど(汗

 

そもそも私は、いい人間なんてなる必要ないと思っている。

自分は自分のままだ。

すぐ怒る自分も、相手をまきこんでひどい言葉を言ってしまう自分も、自分なのだ。

私は私のままでいい。いつもそう思っている。

なぜかといえば、できるだけラクに生きたいからだ(笑)



「どうでもいい」というレッテルを作る

いい人間になるためには、常識に照らし合わせた善悪のレッテルが非常に大切だ。

なぜなら、常識から見た悪を間違って選んでしまうと自分の評価が下がるからだ。

 

だが、何度も言うが、常識はまぼろしである。

しかし、私もそうだが、人間はどうしても物事や他人にレッテルを貼るクセをやめることがなかなできない。

 

そこで、私がおすすめしたいのが、「どうでもいい」というレッテルの作成である。

 

「どうでもいい」とは決して無関心ということではない。

無関心とは、物事や他人を空気のように、目に映ることもなく、音も声も聞こえていない状態に捉えることだ。

 

私のおすすめする「どうでもいい」というレッテルは、物事や他人を認め自分の中にきちんと受け入れる。

 

そして、受け入れはするが、それに対して「判断しない」。

 

つまり、前向きな「どうでもいい」である。

 

この「どうでもいい」というレッテルを使用するようになると、気持ちがグンと楽になる。

もしも「どうでもいい」という言葉がひっかかるのならば、「わからない」というレッテルでもいいと思う。

善悪のレッテルをなくすことは実際、生きていく中では難しい。

 

ならば、その真ん中に、「どうでもいい」という箱を作ってみませんか?

 

常識を基準にせず、自分の思いを基準にして・・

 

 

「心からイヤだ」と思うことは悪という黒い箱に。

「心から嬉しい」と思うことは善という白い箱に。

そして・・

「どうでもいい」と思うことは、グレーな箱にドンドン入れていきませんか?

 

 

これも立派なひとつの「受け入れる」という向き合い方であると私は思う。

インターネットに要注意!

今やインターネットは私たちの生活の一部である。

インターネットはさまざまな便利さを私たちにもたらしてくれた。

買い物の手軽さ、他人とのコミュニケーション、情報の収集など。

 

しかし、インターネットは接し方を間違えると「ありのままの自分」でいることが難しくなる危険性がある。

それは、今のインターネットの情報には善悪のレッテルが貼りまくられているということだ。

 

たとえば、政治問題や環境問題、芸能人などのゴシップ。

私も、政治家の汚職やあきらかに不当な問題はイヤな気持ちにはなるが基本、傍観するようにしている。

もちろん傍観しているからといって、無関心ではない。

きちんと自分の考えはもっている。

だからといって、それをかざして批難したりはしない。

だって、疲れるから(笑)

 

自分の考えがきちんと自分の宇宙でわかっているだけで満足だから。

 

とかくインターネットはさまざまな情報に対して白か?黒か?で染まっていて、グレーというのがほとんどない世界だ。

なぜだろうか?

 

わかりやすい例として、ペットとして飼うならイヌがいいか?ネコがいいか?という論争で考えてみよう。

 

🙂「だんぜんイヌがいいよ!従順だから番犬にもなるしね」

 

🙂「絶対ネコだよ!勝手気ままだけど側にいてくれるだけで癒されるからね」

 

このようにイヌが好きな人と、ネコが好きな人の意見が、インターネットでは真っ二つに分かれてしまう。

 

しかし、世の中には、イヌの良さもネコの良さも好きな人がいる。

もしくはイヌもネコも嫌いな人がいる。

 

しかし、その人たちは、このような白か?黒か?というインターネットの世界の白黒論争にはほとんど発言してこない。

なぜなら今のネット世界が、どちらかに属さないと発言しにくい場所になっているからだ。

 

つまり、政治問題にしても、環境問題にしても、インターネットでは、白か?黒か?という両極端な論争になりがちだが、世の中には現状に満足している人、もしくは「どうでもいい」と思っている人、つまり白でも黒でもない、グレーな人もたくさん存在しているのだ。

 

しかし、インターネットという白黒の世界にどっぷりはまってしまうと、リアルでも白と黒しか存在しないような錯覚を抱いてしまう。

 

これは大変危険なことである。

 

白か?黒か?という、善悪のレッテルだけが異常に蔓延しているインターネットの情報を決してリアルの世界に投影してはいけない。

その結果、自分の自由をなくし、首をしめることになるからだ。

 

基本的に物事は、「不満という感情は表に出やすく、満足という感情は表に出にくい」

 

インターネットを利用する時、このことを忘れてはいけないと思う。

もっとラクに!もっと自由になろう!

 

「ある政治家がこんな失言をした!」

「マスコミがクズすぎることばかり報道する!」

「会社や学校で腹が立つ人間がいる!」

 

このようなことは、「どうでもいい」レッテルを貼ってみませんか?

 

何かに対して許せない!という気持ちは、自分から分離させ、つまり敵を作ることになってしまう。

(記事参照:「受け入れたら味方になる!

もちろん、政治経済、環境、福祉などの情報に無関心になれ!ということではない。

 

私は、「自分自身が、自分のためになる行動を日々していけばそれで良い」と思うのだ。

 

それが結果的に、自分が望む世界を作り上げることにつながると思う。

 

善悪のレッテルだけにしてしまうと、「それを守らなければならないという道」を作ることになってしまう。

 

そして、その道から外れた生き方が許されない人生になってしまう。

 

何よりも、他人に対してもその厳しい道を要求してしまうようになる。

それでは自分も苦しいし、一緒にいる人も苦しい。

 

だけど、前向きな「どうでもいい」レッテルを作れば、もう一本、別の道を作ることができる。

人生の中で歩いていく道は善悪の2本だけではハードだ。

 

だから、もう一本、「前向きなどうでもいい」という道を加えて3本の道にしてみる。

その方が絶対にラクだと思うのだ。

 

 

 

後ろ向きでなければそれでok!

それで十分なのだ!

このように善悪だけでなく、「どうでもいい」というレッテルもドンドン使用していく!

 

そうすれば・・

もっと肩の力を抜くことができる。

もっと自分に優しくなれる。

もっと他人に優しくなれる。

 

そして・・

何よりも「自分が自分らしく生きられる」良い方法だと私は思うのです。

 

今回も最後まで読んでいただき、ありがとうございました 🙂