本当の意味で健康になるには、どうしてもストレス対策が必要である。
だが、対策というよりも、「向き合い方」と言ったほうが良いかもしれない。
私は、これまでもストレスから離れる方法として、
これらの記事を書いてきた。
今回は内容的にその延長線になるが、視点を少しずらして、もっと深く「向き合い方」を考えてみたい。
それは、
受け入れる
という選択肢である。
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イヤな人間は自分だけの世界にいる
私たちが生きていく上で、大きなストレスの原因となり、不安の種を生み出すのが人間関係である。
もしも、あなたに学校や職場でイヤな人間がいるとしたら、はっきり言うと、その人物像はあなたが作り上げている。
「人間関係の消えない不安をしずめる方法」でも書いたが、あなたが怖いクマだと恐れている人物は本当はただのウサギなのだ。
どんな相手だろうが、あなたに対して、なんの力も持っていないし、
いつどんなときも、あなたはあなたのままでいることを邪魔されることは絶対ない。
ところで、あなたはなぜ、その人物が苦手なのだろうか?
もしも・・
🙁「常識では、ありえないことをするから」
このように、その人物を苦手とする理由として「常識がない」、「一般的ではない」、「普通じゃない」
というような言葉が出てくるのならば、いったい、あなたは何をもって、その常識や一般的や普通を決めているのだろうか?
私たちはどんなに他人のことを、「もしも自分だったら」とシミュレーションしてみても、
絶対に主観的にしか見ることができない
つまり、あなたが、自分のイヤな人物の判定しようとして、基準にした常識などは、あなたというフィルターを通ってしまえば、「あなただけの考え」になっているのだ。
たとえば、あなたが苦手としている人物をAさんとする。
あなたは自分のフィルターを通してみることにより、あなただけのAさんが目の前に登場する。
しかし、他の人がAさんをみた場合はどうだろう?
そこには、他の人がみた別のAさんが登場するはずである。
つまり、Aさんはみられる人の数だけ、ちがうAさんがたくさん存在することになる。
本当の意味での共感はありえない
私たちは自分それぞれの世界で、他人をみて、物事をみて、そして判断をしている。
だからこそ、Aさんのことを、他の人と話し合ったときに、
🙂「Aさんはけっこう優しいところがあるよ」
🙁 「え~、私はAさんのことをそんなふうには思えないけどなぁ」
といった意見の食い違いがおこる。
しかし、ときには、Aさんに対して同じ思いだと、他の人と意見が合うこともある。
😥 「わかるわかる!Aさんて良くないよね」
😥 「でしょ!絶対良くないよね」
このようなことを、「共感する」というが、
実際には「共感」とはありえない。
共感とは、錯覚。
共感とは、まぼろし。
それぞれがみたAさんに対する人物像が重なっているようにみえるだけで、じつは別々のAさんをみていることに変わりない。
確かに、このようにイヤな人物のことを、他の人に相談し、共感を得ることは大きな安心感を得ることができる。
しかし、気をつけなればいけないのは・・
🙁 「やっぱり私は間違っていなかった。Aさんはやっぱり変だ。他の人からみても良くないんだ」
こう思ってはいけない。
このように、まぼろしである共感は時として、自分自身で考えることを放棄する方向へもっていってしまう。
すべてはあなたがどう思うか
常識的におかしいから・・・
他の人も変だと言っているから・・
このような、ありもしない、図ることもできない、まぼろしの判断基準は思い切って捨てるべきである。
あなたが苦手とするAさんは、あなたが作り上げたものだから、あなたが自分自身の判断基準を変えない限り、何も変わらない。
Aさんはずっとずっと苦手な人物としてあなたの前に居座り続けるだろう。
そして、それは大きなストレスとなり、不安の種となってあなたの健康を害すかもしれない。
このようなストレスを生む人間関係の解消方法は大きく2つの選択肢がある。
1.逃げる
2.受け入れる
「逃げる」については、「病気は自分の心が作り出している」、「人間関係の消えない不安をしずめる方法」を読んでもらいたい。
では、二番目の方法である「受け入れる」について考えてみよう。
分離するとストレスになる
人は誰でも、自分が認めたものにたいしてはストレスがおこらない。
しかし、自分が認めてないものには大きなストレスがおこる。
たとえば、あなたが好きなミュージシャンのライブに行ったとする。
大きな音の演奏の中にいても、あなたは楽しい時間を過ごすだろう。
では、あなたが寝ている時に、同じく好きなミュージシャンの曲をかけたとする。
😡「なんだ!何時だと思っているんだ!」
このように、あなたはびっくりして飛び起き、怒るだろう。
なぜだろうか?
ライブで音楽を楽しめた理由は・・
🙂「だってライブだし、聴きに行っているんだから楽しめるよ」
では、夜中の音楽に怒った理由は・・
😡「夜だし、寝てるし、音楽を聴くつもりなんてないからだよ」
そうですよね。
このように人は自分が認めたものに対してはストレスを感じない。
逆に自分が認めてない場合はストレスを感じる。
それがたとえ同じものであったとしてもだ。
では次にもっとわかりやすいたとえを・・
あなたは出先で1000円を募金をした。
そして、家に帰る道中で、財布を落としてしまい、財布は戻ってきたものの中身の1000円を盗られてしまった。
😡「なんてこった!とんでもない目にあった!」
あなたはお金を盗まれたことに対して怒りを感じるだろう。
「1000円というお金が財布から出ていった」ということでみれば、募金も盗まれたことも同じなのに。
なぜだろうか?
募金の場合は・・
🙂「募金をした!良いことをしたなぁ」
対して、盗まれた場合は・・
😡「お金を盗まれた!くそ!」
このように、募金の場合は、自分が承諾をしたことであり、
与えたことに喜びを感じる
しかし、盗まれたの場合のように、勝手に奪われたときは、
与えたことに怒りに感じる
このように、たとえ同じ事柄であっても、
喜びになるか?
怒りになるか?
それはその時の場面、思いによって180度変わってしまう。
確かにお金を盗まれるのは腹立たしい。
しかし、そこで・・
🙁 「クヨクヨしても仕方ない、失くしたお金も募金したと思おう」
このように考えるのか、それとも・・
😡 「絶対に許さないからな!」
と、思うのでは、そこからの人生の歩み方が大きく分かれることになってしまう。
「承諾する」とは受け入れることである。
つまり、目の前の対象と一体化することだ。
逆に、受け入れないときは、目の前の対象と離れてしまう。
人は自分から離れたものに対してストレスや不安や怒りを感じる。
しかし、一体化させてしまえば、自分の一部なのでストレスは感じなくなるのだ。
以前の記事でも書いた、「してあげた」ではなく、「したくてした」と同じ意味である。
(記事参照:「してあげている・してあげた」という思いから離れる」)
どれだけの多くの味方をもてるか
ストレスを少なくして生きていく良い方法は、できるだけ多くの味方をつけることだ。
紹介してきたように、自分から分離させてしまったものは、敵になってしまう。
だが・・
あなたが進んで受け入れたものはどんなものでも味方になる。
たとえ、イヤな人物があらわれても、あなたが受け入れたら状況は必ず変わってくる。
🙁「そんなこと言ったって、イヤなものはイヤなんだ!受け入れるなんて無理だ!」
そうですね。
そのように、絶対にどうしてもイヤでイヤで、それによって不安や怒りがずっと続くのならば、
やはり、その対象からは思い切って逃げるべきである。
しかし実際は、イヤだと思うすべてのことから逃げることはできない。
もしも、あなたがイヤだと思う理由の中に・・
常識や一般的といった世間の判断基準があるのならば、もう一度、自分自身の気持ちを見直してみてほしい。
そして、他の人と相談したときに、イヤだと思うことに共感してもらうことよりも、
自分ではない、他人の目線から見た意見はどうなのか?
という視点から相談してみてほしい。
それが、「受け入れる」ということの第一歩であり、
自分が不快に思う多くのことを、逆に味方に変換することができる向き合い方の秘訣なのだ。
水のように生きる
「上善は水のごとし」
水の記事で、私はこのことわざがとても好きだと紹介した。
(記事参照:「4.水の流れにまかせて生きる」)
意味は、
ラクでもっとも良い生き方は水のようになること。
水はいろんな形にかわるが、水という本質は変わらない。
水はいろんな物を溶かすが、水という本質は変わらない。
このように、水は恐れることなく、自分をなくさないまま全てを受け入れていく。
私は、人が物事を批難し、自分から分離させてしまうのは「恐れ」ではないかと思う。
世の中の常識は「他人に迷惑をかけてはならない」が軸だ。
もちろん、他人に迷惑をかけないことは大切だし、だからこそ、たくさんの人が安心して暮らしていける。
しかし、
「他人に迷惑をかけてはならない」
この考えは、本当に自分が心から「そうしたい」と思っているから守るのだろうか?
それだけではなく・・
■小さい頃から親にそう言われてきたから。
■自分の信頼と地位が下がるから。
■人に嫌われて友達を失うから。
このように、迷惑をかけてしまうことにどこかで「恐れ」を感じていないだろうか?
私ニャニャまるは・・
常識的におかしいからやらない
もしくは、
法律に背くことだから犯罪はおかさない
という世間の基準に照らし合わせた世界にはいたくない。
そうではなく、
私である自分自身が・・
相手を悲しませると辛いから、私のためにやらない
相手の笑顔を見ると嬉しいから、私のためにやりたい
このように世の中の常識よりも「自分自身のため」を基準にした世界にいたいと強く思う。
だからこそ、
「上善は水のごとし」のように生きたい。
水のように色んな形のコップに注がれても、自分は自分である。
水のように色んなものが溶け込んでも、自分は自分である。
そうすれば、たくさんのストレスから解放されるのでは?と思うのだ。
「受け入れる」ことは決して怖いことではない。
それはたとえ、受け入れがたいことであっても、受け入れてみよう!とする気持ちが、最初の出発点になるような気がするのです。
どうか、世間や他人の基準ではなく、「純粋な自分自身の気持ち」を基準にして、向き合ってみるようにしてください。
「意地悪をしてくる人」
「挨拶をしてこない人」
このような人が目の前にあらわれたとしても・・
あなたまでが、意地悪をする人になる必要はない。
あなたまでが、挨拶をしない人になる必要はない。
目の前にどんな人物が現れても、あなたを変えることはできない。
あなたを変えることができるのは、あなた自身だけ。
そして、目の前のことを受け入れるのか?拒否するのか?
それを決めることができるのは、あなただけなのである。
ストレスや不安から離れるときの選択肢をして、
受け入れる
この最も効果的で、そして、人間としても大きく成長できる解消方法を、日々の中に取り入れていってもらえたら・・と思います。